タンザニアで牛尼さんと会いたかった
アフリカンスクエアーという「アフリカのものづくりを日本へ」と謳う日本の会社がある。1992年創業のアフリカ専門の輸入・卸売を手がけてきた会社で、わたしがタンザニアにいた時にカンガやチビテのCD、ヘンドリック・リランガの絵画や楽器(ザウォセのリンバ)などを扱ってもらったこともある。30年以上にわたって、地道にアフリカの人々とつながりながら、お互いにプラスになる商いを続けているってすごいと思う。

<『お別れ会』の展示より>
Webサイトを見ると、ほんとうにたくさんのいろーんな種類のアフリカの”もの”が並んでいて、こんだけのものを揃えているって物凄いなと思うし、売れるのだろうかと老婆心が湧いてくることもあった。

<『お別れ会』に展示してあったアフリカンスクエアーの歴史の一部>
その創設者であり、代表でもあった牛尼恭史さんは、今は亡き夫、根本利通の吉田寮(京大)時代の後輩でもあり、ずっと繋がりがあった。夫とわたしがタンザニアにいた頃は、上記のタンザニアグッズの仕入れや送り出しなどもお手伝いしたことがあった。夫による牛尼さんの紹介文は以下だ。「京大の寮の後輩で、山岳部です(文学部仏文科にもいたらしいけど)。卒業後、西アフリカのフランス語圏を放浪して(?)、主に西アフリカの雑貨を扱う会社をやっています」
登山やスキーが大好きだった牛尼さんは今年9月14日に秩父槍ヶ岳(埼玉県秩父市)からの下山中に滑落して、なんと命を落としてしまった。それまでも命の危機をなん度も逃れてきた猛者だったのに。。その翌日にアフリカンスクエアーの中川悠さん(タンザニアでお会いしたことがある)からその連絡をいただいて、あまりに突然のことでガツンと胸を打たれるような気持ちになったのだった。68歳だったそうだ。
しかし、実はわたしは、牛尼さんにタンザニアではお会いしたことがなく、日本でも2018年のヘンドリック・リランガの個展にいらしてくれた時を含め、2回ほどしかお会いしていない。アフリカンスクエアーのスタッフの方たちにはタンザニアに仕入れに来た時にお会いしているのだけれど、牛尼さんは、主にマリなどの西アフリカや東アフリカでもケニアなどの生産者さんたちによく会いに行っていたそうで、タンザニアに来る来るといいつつも忙しいようだった。
直接お会いしたことこそ少なかったけれど、牛尼さんの存在はわたしにとって大きかった。アフリカンスクエアーは、タンザニアのものの取り扱いはそれほど多くないとはいえ、たとえば、ザウォセのリンバ(親指ピアノ)なども日本の音楽家などからのリクエストもあったのだと思うけれども、牛尼さんからは何度か大型のものはじめ、各サイズを取り揃えた注文もらうことがあった。その上、日本の人々にその弾き方やその音を紹介する動画まで作ってくれ、積極的にその素晴らしさを伝えようとしてくださったのだった。リンバを作るジュリアス ザウォセもアフリカンスクエアーからのしっかりしたオーダーを楽しみにしていた。(今はリンバはラインアップにないみたいなので、欲しい方いたら、ぜひアフリカンスクエアーにリクエストしてくださいな)
また、仕事とは直接関係ないのに、助けていただいたこともあった。わたしが2019年にタンザニアから引っ越し荷物をコンテナで送ったときのこと。向こうの業者にはポートtoドアで頼んだのに、日本にコンテナが着く直前になって、その業者が「日本の通関はできないし、港から家までも運べないから、自分で手配せよ、その分の費用は返却する」などと言ってきたことあった。えええ、どうしたらいいのと悩んで、思わず牛尼さんにメールで相談したら、対応してくれる業者の紹介などをとても丁寧にやってくださって、超心強かったことがあったのだ。
存在してくれているだけで、なんだか安心感のある、アフリカのこともよく知る頼り甲斐のある人だったので、突然いなくなってしまって、とても心細く思えたのだった。
2016年1月に夫宛に来た牛尼さんからのメールには、こうある。
「タンザニアはいろいろやりたいことはあり、毎年年初には行動を起こしたいと思うのですが、ついつい他国での仕事が忙しく、そのままになっています。 弊社は昨年は、食品が好調で、マダガスカルのチョコレート、西アフリカの ドライマンゴー、エチオピアのはちみつ、エチオピアのコーヒーなどが売れてきています。おそらくタンザニアに次に行くときは、食品や植物製品の 商品探しの旅になるよいう予感がします。おみやげでいただいているような商品とかニームなども少し追求してみたいです。キリマンジャロもそれ以来ですが、実は今年1月にまたルエンゾリに行くことになりました。今回はぜひ登頂したいです」その年の10月のメールには「2年以内にはタンザニアでお会いしたいと思っています。キリマンジャロにも上っていませんし」とあったのだけど。翌年には根本が他界してしまったし、ついにタンザニアでお会いすることが叶わなくなってしまった。
「キリマンジャロ山よりルエンゾリ山にまず行くなんて、牛尼さんらしいね」と、その話を聞いた牛尼さんの友人は言っていたけど。
10月25日には、東京で、アフリカンスクエアーの主催で『牛尼恭史代表 お別れの会』が開かれた。牛尼さんの写真は、秋の草や花々に囲まれていて、大勢の参加者たちによって秋の花が献花された。

牛尼さんがはじめたアフリカンスクエアーの歴史やグッズの展示、牛尼さんの足跡を語る多くの写真、コラやジェンベなどによる空に抜けるような音楽もあり、新宿生まれの牛尼さんの小学校時代からの友人はじめ、さまざまな人々のスピーチもあり、和やかな会だった。特にマリ、ブルキナファソ、マダガスカル、ケニアなど20年、30年、40年と長年にわたって牛尼さんと関係をつなげてきた生産者の方たちのビデオメッセージやメッセージは、アフリカの人々と共に生きてきた牛尼さんの存在を浮かび上がらせてくれる感じがした。メッセージの中で、ブルキナファソのアフリカンバスケットの会社の経営者のモハメディさんは「牛尼さんは現地の方と打ち解け、誰に対しても真摯に関わる人でした」と言う。マダガスカル生産者ソロフさんにとっては「第二の父のような存在」だったそうだ。ソロフさんが訃報を聞いてから作ったラフィアをかぎ編みして作った花束が会場にローマ字で書かれた言葉と共に飾られていた。

牛尼さんは、アフリカンスクエアーを次世代にそろそろバトンタッチしようとしていたという。その後は自分の好きなこと、したいことに全力を傾けようとしていたと。それは、牛尼さんとアフリカとの関係をますます深くしていたことだろう。
逝ってしまうのが早すぎたけれど、もっといてほしかったのは山々なのだけれど、きっと次世代の若き人々が、アフリカの生産者たちといい関係を続けながら、新たな息吹を吹き込みながら、アフリカンスクエアーを広げていってくれると期待させてくれるような牛尼さんへの感謝を込めた『お別れ会』だったなと思う。

<『お別れ会』会場にあったいい写真。ママたちがカンガを巻いているからケニアかな?牛尼さんの持っているのはニワトリ?笑顔がまぶしい>
とはいえ、寂しくなります。牛尼さん、ほんとうに、ありがとうございました。
<『お別れ会』の展示より>
Webサイトを見ると、ほんとうにたくさんのいろーんな種類のアフリカの”もの”が並んでいて、こんだけのものを揃えているって物凄いなと思うし、売れるのだろうかと老婆心が湧いてくることもあった。
<『お別れ会』に展示してあったアフリカンスクエアーの歴史の一部>
その創設者であり、代表でもあった牛尼恭史さんは、今は亡き夫、根本利通の吉田寮(京大)時代の後輩でもあり、ずっと繋がりがあった。夫とわたしがタンザニアにいた頃は、上記のタンザニアグッズの仕入れや送り出しなどもお手伝いしたことがあった。夫による牛尼さんの紹介文は以下だ。「京大の寮の後輩で、山岳部です(文学部仏文科にもいたらしいけど)。卒業後、西アフリカのフランス語圏を放浪して(?)、主に西アフリカの雑貨を扱う会社をやっています」
登山やスキーが大好きだった牛尼さんは今年9月14日に秩父槍ヶ岳(埼玉県秩父市)からの下山中に滑落して、なんと命を落としてしまった。それまでも命の危機をなん度も逃れてきた猛者だったのに。。その翌日にアフリカンスクエアーの中川悠さん(タンザニアでお会いしたことがある)からその連絡をいただいて、あまりに突然のことでガツンと胸を打たれるような気持ちになったのだった。68歳だったそうだ。
しかし、実はわたしは、牛尼さんにタンザニアではお会いしたことがなく、日本でも2018年のヘンドリック・リランガの個展にいらしてくれた時を含め、2回ほどしかお会いしていない。アフリカンスクエアーのスタッフの方たちにはタンザニアに仕入れに来た時にお会いしているのだけれど、牛尼さんは、主にマリなどの西アフリカや東アフリカでもケニアなどの生産者さんたちによく会いに行っていたそうで、タンザニアに来る来るといいつつも忙しいようだった。
直接お会いしたことこそ少なかったけれど、牛尼さんの存在はわたしにとって大きかった。アフリカンスクエアーは、タンザニアのものの取り扱いはそれほど多くないとはいえ、たとえば、ザウォセのリンバ(親指ピアノ)なども日本の音楽家などからのリクエストもあったのだと思うけれども、牛尼さんからは何度か大型のものはじめ、各サイズを取り揃えた注文もらうことがあった。その上、日本の人々にその弾き方やその音を紹介する動画まで作ってくれ、積極的にその素晴らしさを伝えようとしてくださったのだった。リンバを作るジュリアス ザウォセもアフリカンスクエアーからのしっかりしたオーダーを楽しみにしていた。(今はリンバはラインアップにないみたいなので、欲しい方いたら、ぜひアフリカンスクエアーにリクエストしてくださいな)
また、仕事とは直接関係ないのに、助けていただいたこともあった。わたしが2019年にタンザニアから引っ越し荷物をコンテナで送ったときのこと。向こうの業者にはポートtoドアで頼んだのに、日本にコンテナが着く直前になって、その業者が「日本の通関はできないし、港から家までも運べないから、自分で手配せよ、その分の費用は返却する」などと言ってきたことあった。えええ、どうしたらいいのと悩んで、思わず牛尼さんにメールで相談したら、対応してくれる業者の紹介などをとても丁寧にやってくださって、超心強かったことがあったのだ。
存在してくれているだけで、なんだか安心感のある、アフリカのこともよく知る頼り甲斐のある人だったので、突然いなくなってしまって、とても心細く思えたのだった。
2016年1月に夫宛に来た牛尼さんからのメールには、こうある。
「タンザニアはいろいろやりたいことはあり、毎年年初には行動を起こしたいと思うのですが、ついつい他国での仕事が忙しく、そのままになっています。 弊社は昨年は、食品が好調で、マダガスカルのチョコレート、西アフリカの ドライマンゴー、エチオピアのはちみつ、エチオピアのコーヒーなどが売れてきています。おそらくタンザニアに次に行くときは、食品や植物製品の 商品探しの旅になるよいう予感がします。おみやげでいただいているような商品とかニームなども少し追求してみたいです。キリマンジャロもそれ以来ですが、実は今年1月にまたルエンゾリに行くことになりました。今回はぜひ登頂したいです」その年の10月のメールには「2年以内にはタンザニアでお会いしたいと思っています。キリマンジャロにも上っていませんし」とあったのだけど。翌年には根本が他界してしまったし、ついにタンザニアでお会いすることが叶わなくなってしまった。
「キリマンジャロ山よりルエンゾリ山にまず行くなんて、牛尼さんらしいね」と、その話を聞いた牛尼さんの友人は言っていたけど。
10月25日には、東京で、アフリカンスクエアーの主催で『牛尼恭史代表 お別れの会』が開かれた。牛尼さんの写真は、秋の草や花々に囲まれていて、大勢の参加者たちによって秋の花が献花された。
牛尼さんがはじめたアフリカンスクエアーの歴史やグッズの展示、牛尼さんの足跡を語る多くの写真、コラやジェンベなどによる空に抜けるような音楽もあり、新宿生まれの牛尼さんの小学校時代からの友人はじめ、さまざまな人々のスピーチもあり、和やかな会だった。特にマリ、ブルキナファソ、マダガスカル、ケニアなど20年、30年、40年と長年にわたって牛尼さんと関係をつなげてきた生産者の方たちのビデオメッセージやメッセージは、アフリカの人々と共に生きてきた牛尼さんの存在を浮かび上がらせてくれる感じがした。メッセージの中で、ブルキナファソのアフリカンバスケットの会社の経営者のモハメディさんは「牛尼さんは現地の方と打ち解け、誰に対しても真摯に関わる人でした」と言う。マダガスカル生産者ソロフさんにとっては「第二の父のような存在」だったそうだ。ソロフさんが訃報を聞いてから作ったラフィアをかぎ編みして作った花束が会場にローマ字で書かれた言葉と共に飾られていた。
牛尼さんは、アフリカンスクエアーを次世代にそろそろバトンタッチしようとしていたという。その後は自分の好きなこと、したいことに全力を傾けようとしていたと。それは、牛尼さんとアフリカとの関係をますます深くしていたことだろう。
逝ってしまうのが早すぎたけれど、もっといてほしかったのは山々なのだけれど、きっと次世代の若き人々が、アフリカの生産者たちといい関係を続けながら、新たな息吹を吹き込みながら、アフリカンスクエアーを広げていってくれると期待させてくれるような牛尼さんへの感謝を込めた『お別れ会』だったなと思う。
<『お別れ会』会場にあったいい写真。ママたちがカンガを巻いているからケニアかな?牛尼さんの持っているのはニワトリ?笑顔がまぶしい>
とはいえ、寂しくなります。牛尼さん、ほんとうに、ありがとうございました。
この記事へのコメント