『ムチョラジ!』が放つ輝き

 わたしがタンザニアに移り住んだのは、1989年のこと。そのころは、ケニアの首都である大都会ナイロビに比べたら、わたしが住んでいたタンザニアの最大都市ダルエスサラームは、まだまだ物資も少なめで高層ビルもないのんびりした街だった。対照的に、中心街には新しいビルが立ち並び、日本食のレストランや日本食料品店もいくつかあり、バーガーキング(だったと思う)などのファストフード店もあり、ハリウッド映画が上映される映画館もあっていろいろ整っているナイロビはキラキラして見えたものだった。
 わたしの初めてのお産は翌年の4月で、ダルエスサラームで出産したのだが、その前に逆子だったら困るよねと、買い出しも兼ねてナイロビに行ったときに産婦人科医を訪ね、ダルエスサラームの病院にはまだなかったスキャンで調べてもらったことを覚えている(幸い問題なしだった)。

 その頃よりは少し後だけれども、1994年4月から翌年3月まででナイロビはケニヤのジョモ・ケニヤッタ農工大学で建築論と設計を学生たちに教えたという坂田泉さんにお会いする機会があり、その間に描いた柔らかくも力強いタッチの生き生きとした”道端の人々”のスケッチ満載のご著書「ムチョラジ!(Mchoraji)」をいただいた。スワヒリ語で”絵描きさん”のことである。

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 坂田さんは、物心ついた頃から絵を描くことが好きだったそうだ。ナイロビでは、大学で教鞭をとる傍ら、土日などのお休みに絵の道具を抱えて街を歩き、スケッチを始めた。すると人々が近づいてきてくれ、声をかけてくれ、「僕を閉じ込めていた壁に穴が開いて、風が通い始めた感じが」したのだという。(p.14)

 そして次は自分から声をかけてみようと、何度も前を通り過ぎたことのある「博物館に向かう道端の大きなユーカリの樹の下でトウモロコシを焼いている男」を描いてみようと心に決め、最初は、ギクシャクとしたコンタクトながらも彼の承諾をとり、描きはじめたのだった。その後も自身のアパートの近辺だけでなく、ケニア人同僚のアドバイスもあり、庶民的エリアにも道端の人々と出会いに出掛けてゆくようになる。

 最初は坂田さんから「描かせてほしい」と頼んでいたのが、「ムチョラジ」と親しみを込めてスケッチで繋がりを持っていった”道端の人々”から呼びかけられるようになった坂田さんに、自らを描いてほしいという人も現れてくる。客待ちのタクシー運転手ジェイムズが最初だった。そしてその後も「解放食堂」のおかみさん、ストリートチルドレンたち、手で歩いているような物乞いのマイナなど、坂田さんは多くの道端の人々と出会ってゆく。「人物を描く」ということは、言葉を使わずにその人と対話するということでもあるのだろう。「描き込むうちに、この人は世界にひとりしかいないというあたり前のことが胸に迫ってくる」(p.43)

 電気も水道も清潔な食べ物や家が十分ではなくても、「子どもたちは泥だらけになってはしゃいでいるし、大人たちは道端で仕事をひねくりだし、互いに支え合いながら食いつないでいる」(P.74)「助けようなんておこがましい。人々は力にあふれている。助ける側から人々を見るのはもうやめよう。貧しさばかりが見えてきて、人々の力を見失うからだ。まずこの力を感じるのだ。僕に何ができるかは、その後に来る」(p.75)

 「援助」「助ける側からこの国を見続ける」というフィルターからは見えてこない人々の姿がスケッチを通して繋がることによって坂田さんの前に現れた。
「人を助けるというのは、自分の中から力を振り絞るのことではなく、相手に力を見つけ、それにこたえるということ」(p.110) それは、大学で何を教えるかにもつながってくることなのだと。

 本書の中のたくさんの坂田さんの描いた生き生きとした人々の姿と共にあるみずみずしい文章が、ナイロビの臨場感ある抜けるような空気を読者にも運んできてくれる。

 本書の中で感銘を受けたことはいくつもあるけれど、特に好きな場所は、クリスマスの月に雑踏の中に座り、ゴスペルを歌う盲人の男女の姿を許しを得て
描くシーン。その後、できあがったスケッチをその男性に触ってもらった時、横にいた見物人が「ムゼ(おじさん)、すばらしい出来だよ。そっくりだ」と彼らに伝え、男性がうれしそうにほほえんだ、というところ。伝えたい気持ちがあれば、障壁を乗り越えて伝えられるのだということ、それを肩肘張らずに繋げてくれる人も存在するというエピソードと、76ページをまるまる占拠している逆に坂田さんを描いたタバコとキャンディ売りの絵が、なんとも言えずいい雰囲気で、坂田さんと彼らの関係性を滲ませてくれている。
 
 ダルエスサラームの街中も1990年代半ばから比べたら大都会という感じに激変してきているから、ナイロビの変化も30年前と比べれば、きっと凄まじいものがあるのだろう。道端の人々を取り巻く環境も変わってきていることだろう。しかし、彼らの支え合いながら、逞しく生きてゆこうとする力は、きっと今も存在しているのではないかな。ダルエスサラームの例を見てもそう思う。

 坂田さんの心にはその後もいつも「アフリカ」があったのだという。2011年にケニアの建築家、エコノミストと共に、「日本のタネをケニアでカタチに」をモットーに、一般社団法人OSAジャパンを立ち上げた。そして『「虹プロジェクト」の名の下、ケニアと日本の間に「虹」を架けるような仕事を目指して』*活動を続けているのだという。まさに今もケニア、アフリカの人々と有機的に繋がり続けている。

 坂田さん自身が「わたしのアフリカの”原点”です」と言うこの「ムチョラジ!」は、今も新鮮な輝きを放ち続けている。ぜひ手に取ってほしい一冊だ。

 
 🌈上述した「虹プロジェクト」のウェブサイト(http://osa-rainbow.com/index.html)の中の右のリンク(http://osa-rainbow.com/24-page=1.html)から坂田さんの「ムチョラジ!」での絵画を見ることができると坂田さんに教えていただいた。ぜひご覧いただきたいが、「ムチョラジ!」の本と合わせ読むとよりいっそう彼ら、彼女らの姿も浮かび上がってくると思う。🌈
 

「坂田泉さんプロフィール」(2024年4月版)より

 

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