アブドゥルラザク グルナ氏による『インド洋の旅』

 今年のノーベル文学賞は、ザンジバル出身のアブドゥルラザク グルナ氏が受賞した。彼の存在や作品のことは受賞前、ほんのひと月半前に偶然知った。

『THE MOST TRANSLATED BOOKS FROM EVERY COUNTRY IN THE WORLD』(世界すべての国で最も翻訳された本)というサイトをたまたまネットで見つけた。タンザニアの作家の本で一番多くの言語に翻訳されているのは、グルナ氏の著作Paradiseだということだった。
(その時に読んでみたいと思って、ParadiseをAmazonで調べてみたんだけど、”在庫切れ”と出てたのでいったん諦めた)

 初めて知ったグルナ氏、1948年にザンジバル(ウングジャ島)で生まれ、革命後に難民としてイギリスに渡ったという。その経歴を知り、興味を持っていたら、これまたたまたまYouTubeで下記の動画に遭遇した。

 グルナ氏が教鞭を取っていたイギリスのケント大学での講演の動画。
 タイトルは『Indian Ocean Journeys(インド洋の旅)』



 一度視聴しただけでは、わたしの英語力と歴史の知識では、理解しきれないところ多しだったが、それでも、思ったことは、「ああ、根本(夫の根本利通)が知ったら、なんと言うだろう」ということだった。 

 グルナ氏のノーベル文学賞受賞を知り、再びこの動画を見た。そして、改めてグルナ氏が広げる世界が根本の関心ある世界と、彼がライフワークとして執筆しようとしていた『東アフリカから見たインド洋西海域史』への思いと、重なるところが多いのではないかと感じた。
 根本はその著書『スワヒリ世界をつくった「海の市民たち」』で下記のように述べている。

「インド洋は単に交易の媒体であっただけでなく、その周縁に住む人々にとっては、文化的・社会的・民族的に、共通性・関連性をもった一つの『世界』であったのではないだろうか」(P.10)

 歴史オタクだった彼は予備校生の時に世界史の中でアフリカの歴史が語られてこなかったということに気づいて愕然としたそうだ。そして、アフリカから見た歴史にこだわり、東アフリカ、タンザニアに住みながら、そこから広がる歴史を知り、執筆したいと願っていた。それは海(インド洋)が繋ぐ歴史でもあった。


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 グルナ氏の『インド洋の旅』の話は、フラ マウロの世界図から始まる。(この地図の存在も今回初めて知った) 
 ベネチアの修道士フラ マウロがポルトガル王の委託で15世紀半ば(1457〜59)に作ったとされる地図の映像も出てくる。ポルトガル王の狙いはアフリカ大陸を大西洋から巡ってインド洋に出るルートを見つけられるかということ。この地図でヨーロッパでは初めてインド洋が閉じた海(内海)ではないことが示されたという。

 フラ マウロはベネチアのムラノ島の修道院に居ながらにして今までの他の地図や情報提供者たちのデータを元に地図を作成したという。それらは、たしかにアラブやペルシャからの情報に基づいたものであろうとグルナ氏は言う。なぜなら西インド洋に吹く季節風をうまく利用してより長い航海をしていた船乗りはアラブ人たちだったからだ。

 そのデータの中には、10世紀のアラブ人の歴史家で東アフリカまでを含む各地を旅してまわったアル マスーディの著作や、973年にすでにアフリカ大陸を巡って大西洋とインド洋を結ぶ海のルートがあるとはっきりと信じていたというアラブの哲学者アル ビルニの存在も含まれていただろうという。
 このフラ マウロが地図を作ったのが1450年代、そのおよそ500年前(973年)にはすでにアフリカ大陸を巡る海の道があると推測されていたのだ。これは、フラ マウロが地図を作った頃までにはインド洋とその島々について(すでに)多くの知識の蓄積があったことを示しているという。

 1498年、バスコダガマの船がインド洋に繰り出し、インドのカリカットに到着する(船の操縦はアラブ人だった)。それがポルトガルによってその後数百年続く破壊と収奪(slashed and burned)の歴史の始まりだった。それまでのインド洋での貿易は決して軍事統制によるものではなかったので、武力で攻めていくポルトガルは敵なし状態だった。そしてガマの1502年のカリカット砲撃と20隻の船団に兵士を乗せ上陸させた後の彼らによるものすごい残虐行為が語られる。(相手の兵士や水夫の耳や鼻を切り落とし、生きたまま船ごと焼くなど)その野蛮な破壊行為がキルワ、モンバサなどアフリカの沿岸部でも繰り返されていったのだと。
 
 ”To the surprise, ports and cities along the Indian Ocean, it must have seemed as if
something demonic had befallen to their world.”
 「インド洋沿いの港や町は、突如悪魔的な何かが彼らの世界(日常)に降りかかってきたように感じられたに違いない」

 そしてイギリス、フランス、オランダ、ドイツなどのヨーロッパ帝国主義の時代となっていく。福音主義者、探検家、そしてヨーロッパ諸国の政府がアフリカに入り込み、彼らがアラブ人を奴隷とハーレムが好きな遅れたもの達とすることによって西インド洋はカテゴライズ(orientalizing)されていく。アフリカ人を救うために横暴なアラブ人を押さえ付けるのだといったように。

 そして、グルナ氏の故郷、ザンジバルについて語られる。
 ザンジバル(ウングジャ)島に生まれ、港沿いのマリンディというところに住んでいたと。彼の家の2階からは波止場沿いの倉庫やダウ(帆船)が数多寄港する港とその先へとつながる海への道が見えたそうだ。
 "The dominant narrative was the sea and the ocean beyond it."
「主要な物語は海とその向こうの大洋によって語られた」のだと。

 毎年11月頃にはベンガル湾から南インド、南アラビアを渡り、ソマリア沿岸を、そしてザンジバルへと向かう南西モンスーンが吹く。何百艘とも思われるダウ船がとてもたくさんの荷物をびっしりと詰め込んで”わたしの裏庭の港”にやって来る。(この辺の話からはグルナ氏が子ども時代に感じていた海とのつながりによる高揚感が伝わってくるような気がした)
  
 グルナ氏がたまたま出会った1955年発行の『I love cloves』という本の中で目にした二枚のザンジバルの写真について語られる。一枚目の写真は、彼が住んでいたマリンディの一角を切り取ったものだった。写真の中では、アラビア半島からモンスーンに乗ってやってきた風待ちの船乗りたちが、暇な様子でリラックスしている。彼らを目当てにした野菜や果物などの簡易市場があり、そして奥の広場の一角で遊ぶ子どもたちの中には、ちょうど学校に上がる直前の年頃の自分がいたかもしれないという。

 この写真に付けられた「アラブ地区(Arab Quater)」というキャプションを見てグルナ氏が感じたのは、”我々の複雑な小さな世界が乱暴に要約されてしまった、何か貴重なものを奪われてしまった”ということだという。

 写真からは見えない、そこに住んでいた人々について語られる。右端の家に住んでいるのはインド人一家、その隣はクローブ栽培者協会のイギリス人の家、端っこの建物は地元の警察署でソマリアのルーツの巡査部長がいて、角にはイエメン人が営業するカフェがある、などなど。海が繋ぐ多様な人々の暮らすコスモポリタンなザンジバルの町が浮かびあがってくる。

 もう一つの写真のキャプションは「ヨーロッパ地区(European Quater)」。しかしそこに写し出されるのはアラブ様式の建物なのだった。当時住んでいたのはイギリス人だったが。

 とても入り組んだ複雑な物語が、二つの簡単な言葉(キャプション)に押し込められてしまった。それはその創作過程において他の人々の文化を奪い、抑圧することを意味するのだとグルナ氏は言う。

 1964年のザンジバル革命の後、モンスーンによる貿易は終わり、帰っていった船は二度と戻ることはなかった。
 しかし旅は続いているという。それは、スワヒリ語の広がりだと。東アフリカ沿岸で生まれたスワヒリ語は海を越え、オマーンや湾岸諸国でも話されているのだと。
 でもこれも以前に何があったかの名残に過ぎないのだと。

 締めの言葉は「わたしもまたこれらの地域を繋いでいた何世紀にもわたった対話の破壊と喪失を嘆く」であった。

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ザンジバルの海、インド洋を行く小型のダウ船

 暗くなる終わり方であったのは、その破壊と喪失が今も終わってないということなのだろう。だからグルナ氏は文章を紡いでいるのだろう。

 以上のわたしの解説(解釈?)は、ぎこちなかったり、ずれていたりするところもあるかもしれない。けれども、その”対話の破壊と喪失”を見つめ、不当に押し込められ隠されていた物語を生き生きと再構築していくことが、グルナさんの主題なのだろうと思った。その背景には彼が子ども時代に体験したザンジバルでの、東アフリカとアラビア半島はじめ、他の大陸をも結んでいく民族や国家を超えた多様で豊かな世界があった。海で繋がる世界があったのだと。

 「ヨーロッパという中心に逆規定された、狭いナショナリズムをこえて、インド洋を隔てるものとしてでなく、結びつけるものとしてある世界を見てみたいと思うのである」(根本利通 『スワヒリ世界をつくった「海の市民たち」』P.11)

 グルナ氏がノーベル文学賞に選ばれたのは、(もちろんその作家性もさることながら)ヨーロッパが自ら過去を振り返って現在に繋げる努力をし始めたということなのだろうか。
 物語の再構築が現実世界をも再構築していくことができるだろうか。
 
 夫がグルナさんの存在を知っていたら、その著作をなんとか手に入れて読んでいたのではないかと思うから、きっと知らなかったんだろうな。もし、読んでいたらなんと語っただろうか、その声を聞きたいと願いながら、『インド洋の旅』をした。

 この講演動画を一緒に視聴したタンザニア生まれの英語が達者な我が子どもたちは「グルナさん、難しい言葉や言い回しをけっこう使ってるから、きっとこの人の本も一筋縄ではいかないよ〜」と言っていたけれど、ぜひ読みたいと思っている。
 




<関連ブログ>

 『オマーンへの旅―7☆スワヒリ語で話す』2014/01/12 https://asatanza.seesaa.net/article/201401article_4.html

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