一つの時代が過ぎゆくときに

 2月も半ばを過ぎるとなんだか気持ちがざわざわしてくる。夫の根本利通の命日の2月24日が近づいてくるからだろう。もうすぐ4年が経つ。
 そんな気持ちでいた時に、ザンジバルのセイフ・シャリフ・ハマド第一副大統領が亡くなったというニュースが入ったのが、今月17日のこと。一つの時代が通り過ぎてゆく気がした。

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亡くなった翌日のタンザニアのMwananchi紙の一面「セイフ・シャリフの始まりと終わり」


 ハマド第一副大統領は、タンザニアで新型コロナの感染者数の更新が昨年5月初旬から行われていない中で、1月31日に新型コロナ陽性となったことを公表して、入院していた。2月1日の本人のツイートだと容態は安定しているとのことだったのだが。(亡くなった原因は発表されていない)77歳だった。

 1943年ペンバ島生まれの彼は、1995年のザンジバルでの32年ぶりとなる複数政党制総選挙の時に野党CUF(市民統一戦線)からザンジバルの大統領候補として立候補して以来、昨年、2020年の総選挙までなんと6回にわたって野党の有力大統領候補として立候補していた。勝利者は常に与党CCM(革命党)の候補者だったが。

 根本がタンザニアの総選挙がある度に新聞記事や人々の話や行動を見聞きして、詳しいレポートをまとめていた。※3 彼と「セイフ・ハマドがまた大統領候補になったよ」とかいう会話を選挙の度に交わしていたような気がする。彼のレポートにももちろん、セイフ・ハマドは登場するので、本人に会ったりしたことはないけれども(もちろん新聞報道やテレビなどで見かけはするけど)、わたしの中でも、もう20年以上知っているペンバ島出身の象徴的な政治家となっていた。

 1995年の総選挙の根本のレポートでは、ザンジバルはウングジャ島に比べ、ペンバ島への投資がなおざりにされ、インフラ整備が低下していること、過去5代のザンジバル大統領がすべてウングジャ島出身者だったことなどを挙げ、
「『今度こそペンバ島から大統領を』というのが、CUFのハマドにかけられたペンバ人の悲願であった。
 ハマドはペンバ出身で、若くしてザンジバル政府首相を務め、85年にはCCMの予備選でわずか7票の差で大統領候補を逃した。88年に首相の座を追われ、その後、機密文書保持の罪で投獄・自宅軟禁を繰り返されてきた。CUFの議長としてザンジバルの大統領選に臨むことは昨年から明確だった」と述べている。※1

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CUFカンガを巻いたCUF支持者の女性。ペンバ島にて、2014年。



 その後の総選挙では、CUF支持者の若者たちと警官の衝突があり、流血の事態が起き、選挙をCUFなど野党がボイコットしたこともあった。(2000年)

 その年の選挙のレポートで、根本はこう書いていた。
「ハマドの戦略はもう突破口を開けないのではないか。ペンバ島の人々の気持ちを思うといたたまれない気がする」※2

 2010年の総選挙でアリ・シェインCCM候補に49.3%対48.3%でという得票率で涙をのんだ後、ハマドは、大統領となったシェインに第一副大統領に指名された。


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ザンジバルで壁に貼られていたザンジバルの大統領の投票用紙のサンプル。2010年


 そして昨年の10月の総選挙では、CUFとは袂を分かち、ACT-Wazalendo(変革と透明性のための同盟ー愛国者)の大統領候補として立候補していた。

 選挙の前後で不正や暴力があったとの野党やその支持者たちなどの主張も大きなニュースとなり、報道ではCHADEMA(民主開発党)とACT-Wazalendoの2つの主要野党は選挙結果を認めず、新たな選挙を求めているとあった。※3
 フセイン・ムウィニCCM候補のザンジバル大統領当選が発表されたとき、ハマドは選挙の在り方に対する平和的なデモを呼び掛けたということで2回目の警察による拘束を受けていた。※4

 しかしその後、ザンジバル憲法の求めにより、CCMとACT-Wazalendoは連立政権を組むことになる。12月7日にムウィニ・ザンジバル大統領によってハマドはザンジバル第一副大統領に指名された。


 ダルエスサラームのムヒンビリ病院で亡くなったハマド副大統領の棺は、ダルエスサラームのモスクからザンジバルのウングジャ島を経由して、故郷のペンバ島へ到着した。そこで永遠の眠りにつく。
 そのようすは、テレビやネットでライブ放送され、ウングジャ島の沿道やムナジ・モジャ・グラウンドに集まったザンジバルのとても多くの人々に見送られるようすが映し出された。※5(世界は新型コロナのパンデミックの中にあるがここではソーシャルディスタンスはとってない)

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ライブ放送の一場面。ウングジャ島で彼の棺を載せた車を出迎え、見送る人々。

 現職第一副大統領の葬儀は国を挙げての盛大なものとなった。ザンジバルでは7日間の喪に服すという。

 在タンザニア米国大使館のHPにある大使からのハマドの訃報にさいしてのステートメントには、
「最後の日々、彼は二つのとても勇敢な行動をとった。一つは、ザンジバルの国民統一政府の後方支援をしたことだ。ムウィニ大統領とともにすべてのザンジバル人のためのリーダーとなる努力、過去の傷を癒すための努力をした」※6(二つ目は※6に)とあった。

 その傷にはかさぶたが張っただろうか?? 政治家の側ではなく、「タンザニア民衆」がどう選択するかという視点に立っていた根本なら、なんと言っただろう、どう書いただろうと思う。考え続けるしかないけれど。
 
 Puzika kwa Amani.


 

※1『タンザニアに生きる』(昭和堂)第19話「国家と民衆」P.126
 
※2 〃 第20話「『民主主義』への道程 P.139

※3 https://asatanza.seesaa.net/article/202011article_1.html

※4 https://youtu.be/55__wm_nX9Q
 
※5 https://youtu.be/R2JheHR1-TA

※6 https://tz.usembassy.gov/statement-by-ambassador-donald-wright-on-the-passing-of-zanzibar-first-vice-president-seif-sharif-hamad/
  「二つ目は新型コロナに罹患したとき、その診断を世界に知らせた。すべてのタンザニア人の健康と安全への彼の貢献を再び示した」

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