ベルリンのストリート☆植民地総督からタンザニアの独立運動を担った女性の名前に!

 どの視点から歴史を見るかによって、その見え方はガラッと変わってしまう。

 1888年にドイツ東アフリカ会社の勢力圏拡大への住民たちの抵抗からはじまった"アブシリの反乱”を鎮圧したドイツ領東アフリカ(タンザニア大陸側とルワンダ、ブルンジ)時代の国家弁務官ヘルマン・フォン・ヴィスマンは、1890年のドイツ帰国時には英雄として迎え入れられたという。しかし、アブシリ側というかタンザニア側から見たら罪なき人々の土地を不当に取り上げ、搾取し、殺した、とてつもない罪人となる。

 奴隷貿易、植民地支配はどう考えても負の歴史のはずだけれど、そうなりきってはいないということは、今年のBLM運動の広がりからも見えてくる。

 11月下旬にそのヴィスマンにちなんでつけられたドイツのベルリンのヴィスマン通り(Wissmannstraße)をタンザニアの独立運動を担い、独立後初の女性閣僚でもあったルーシー・ラメックの名前を取ったラメック通り(Lameck-Straße)に変えるというニュースがタンザニアの新聞のニュースで流れてきた。


 
 このベルリンの改名キャンペーンへの取り組みは、なんと15年前から行われてきたそうだ。NGOのBerlin Postcolonialは、ベルリンを拠点にするタンザニア人たちとともにこの運動に取り組んできたという。ドイツ領東アフリカ時代のおよそ100年以上も前のできごとにも今も「自分事」として歴史と向き合いつづけている人々の存在とその地道な努力に感じ入る。

 そのNGOのフェイスブックページでは
「ドイツとタンザニアが共有する暴力的な植民地時代の歴史が、ここで消されるのではなく、むしろこれまでとは逆の方法で語ることができて、うれしいです。ヴィスマン*1は人種差別主義的な戦争犯罪者であり、ルーシー・ラメックの独立を求めるタンザニアの女性たちの闘いへの貢献は、過小評価されてきました」*2
とあった。

Lucy-Lameck-Strasse-Berlin-Postkolonial.jpg
©Berlin Postcolonial 

 ラメックのことは寡聞にしてこの記事を読むまで、実は知らなかった(知らないことだらけ!だなあ)のだけど、魅力的な人だったようだ(59歳の若さで亡くなっている)。一番上のはじけるような笑顔の写真の女性である。このとき着ている服は彼女がTANU(タンガニーカ・アフリカ民族同盟)の女性部門の責任者だったときに自らデザインしたタンガニーカの民族衣装だそうだ。自分たちの衣装に誇りを持とうということなのだろう。キテンゲのような布を使っていてなかなかすてき。(全身写真はコチラで見られます⇒https://www.flickr.com/photos/nationalarchives/5404812081/in/photostream/ )

 1934年にキリマンジャロの近くの農家に生まれた彼女は、16歳の時に看護師になる訓練を受けるが、イギリス植民地制度のコマにはなりたくないと看護師になるのを辞めたというエピソードもある。

 20代になってTANUに加わり、政治活動に参加するようになったという。奨学金を得て、イギリスのラスキン大学やアメリカの西ミシガン大学で学んだ。1960年にアメリカにいた時にラメックは「あなたの国で見てきたより、わたしたちの国のほうがいい人種関係が築かれている」と言ったそうだ(つまり、タンザニアの人々は寛容だということなのかな?:下の写真)。Wikiによるとその年に「彼女は1960年にアメリカ全土のアフリカ系アメリカ人コミュニティのツアーを実施し、アメリカとタンガニーカの経済的な違いを調査した」とある。人種差別の激しかったアメリカでの体験はいろんなショックがあったことだろう。(とはいえ、ナイジェリア出身の作家アディーチェの小説『アメリカーナ』で主人公の現代のナイジェリア人女性がアメリカに渡って初めて自分が「黒人」なのだと知り「人種」を発見するとあるので、残念ながら今もまだ………)



 1961年にタンガニーカはイギリスの統治から独立した。そこに戻った彼女は、タンガニーカ首相となっていたニエレレに任命されて国会議員となり、のちにタンザニア初の女性大臣となる。一番上に挙げたThe Citiezenの記事には「彼女は一生かけてタンザニアの女性たちの生活向上のために働いた」とあった。


 タンザニアの人たちはどう思ってるんだろうと気になった。Jamii Forums(「東アフリカを代表するスワヒリ語のディスカッションフォーラム」)のこのニュースを告げるツイッター(下)には「いいね」が120もついていた。
 でもその中にあるコメントには「いいことだ!」というのも、もちろんあったけど「(このことは)タンザニアにいる人たちよりも、むこう(ベルリン)にいる同胞のほうを惹きつけることだろう」とか「タンザニアにはルーシー・ラメック通りがない」(実際にはモシにあるらしい)などとちょっと冷めている感じのものも見受けられた。ドイツの人々こそが向き合うべき問題だということなのかもしれない。

 

 〇読んでくださってありがとう〇


*1:ヴィスマンは Wikiによると、当時も身内(ドイツの軍や外交など)からもその残虐性への批判があがっていた。
*2 :
本文は” We are especially glad that the violent colonial history, which Germany and Tanzania share, is not erased here, but rather told under reversed signs. Wissmann was a racist war criminal. Lucy Lameck stands for the undervalued contribution of Tanzania's women to the fight for our independence”

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